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Air Tahiti Nui repas cuisine SMailion

ボラボラ島のおすすめレストラン

「神々によって創られた島-マイ・テ・ポラ-」と呼ばれるこの島は、美食ととても深いつながりを持っています。伝説によると、かつて、この島では、海や畑、牧場から集められた最上級の食材を使った豪華な饗宴が開かれていたと言われています。

「神々によって創られた島-マイ・テ・ポラ-」と呼ばれるこの島は、美食ととても深いつながりを持っています。伝説によると、かつて、この島では、海や畑、牧場から集められた最上級の食材を使った豪華な饗宴が開かれていたと言われています。

ボラボラ島のベストレストラン

Bloody Mary’s

ボラボラ島で最も有名なこのバー&レストランは、島の南、ポファイ湾の出口に位置しています。ここでは、冷蔵ディスプレイから新鮮な食材を選ぶことができます。肉や魚(採れたてのもの)、そしてさまざまな種類の野菜が並びます。好きな食材を選ぶとすぐに料理してくれるので、選んだ食材のおいしさをそのまま楽しむことができます。

ここでは、足が細かな砂に触れるビーチサイドで、フレンチポリネシアの音楽をバックに食事を楽しむことができます。フレンチポリネシアならではの美味しい料理と素晴らしい雰囲気を心ゆくまでお楽しみください。
 

Saint James. 

ヴァイタペ(ボラボラ島の中心部)にあるビストロレストランで、マリーナのすぐそば、街中心部近くの海沿いに位置しています。

地元の新鮮な食材とフランス料理の技術が融合した洗練された料理を、ロマンチックで穏やかな雰囲気の中で味わうことができます。さらに、美しく整えられたワインセラーもあり、食事にぴったりの一本が見つかることでしょう。
 

Villa Mahana.  

ボラボラ島で唯一の高台にあるこのレストランは、ポファイ湾の山腹に位置しています。テーブルの数や席数が少ないため、とても特別感のある贅沢な空間で食事を楽しむことができます。

シェフ自らがゲストを迎え料理を手がけることにより、食事のひとときをユニークで洗練された美食体験に仕上げてくれるこのレストランでは、地元産の食材と輸入食材を巧みに組み合わせたガストロノミー(美食)を楽しむことができるでしょう。
 

五つ星ホテルのおすすめレストラン

ボラボラリーフにあるモツ(小島)を拠点とするリゾートでは、革新性と洗練された技術が光る料理の数々を提供しています。「フェヌア(タヒチ語で地元)」の食材を主役に、厳選された輸入食材と組み合わせた革新的な食体験をお楽しみください。こうしたレストランは、特に、ラグジュアリーでロマンチックなダイニング体験を楽しみたい方にぴったりです。

おすすめのレストランとしては、セント・レジス・ボラボラ・リゾート内の「Lagoon Restaurant by Jean-Georges」や、インターコンチネンタル・ボラボラ・タラソ・リゾート&タラソ・スパ内の「Corail」が挙げられます。


ボラボラ・ヨットクラブ

ヴァイタペにあるこのレストランは、夕暮れ時にバーでカクテルを楽しみ、ロマンチックな雰囲気の中でディナーを味わうのに理想的な場所です。ラグーンを望む絶好のロケーションで、フランス料理とポリネシア料理にインスパイアされた料理を楽しむことができます。

このレストランでの食事はまさに「体験」。ボラボラ・ヨットクラブで見る夕日は、人生で最高のサンセットになることでしょう。

他の島々と同じく、ボラボラ島に来たらフードトラックで新鮮な生魚を是非味わってみてください。島内のあちらこちらにフードトラックが点在していますが、なかでも有名なのが「マティラ・スナック- Matira snack-」。地元の人にも観光客にも愛される、フードトラックのアイコン的存在です。

その他のおすすめフードトラックとしては、「クレープリー・ブルトンヌ - Crêperie Bretonne-」が特にイチオシです。地元の食材を使ってワッフルやガレット(そば粉のクレープ)を調理するという、センス抜群のアイデアで高い人気を博しています。

ところで、ボラボラ島の料理はどうやって生まれたのでしょうか?

 

ボラボラ島における食文化の歴史

「Bora Bora i te fanau tahi the firstborn(最初に生まれた者)」

東ポリネシア最古の島とされるボラボラ島が、かつて「ヴァヴァウ」と呼ばれていた時代に遡ります。当時、島には大きな戦士の部族が3つ存在し、島の支配権をめぐって激しく争っていました。アリイ・ラヒ(Ari’i Rahi)=王に相当する地位を目指して戦いが繰り広げられていたのです。

争いのあとには、平和の回復を祝う大宴が開かれるのが習わしでした。
祭司(タフア / tahu’a)による儀式や供物のあとには、ラグーンや外洋で獲れた魚、豚、アナウ、ヌヌエ、ファアヌイ地区の耕作地で育った芋類や野菜などを皆でシェアして食べていたといわれています。戦の終わりと共に訪れる平和と食の祝祭が、現在のボラボラ島の食文化の原点を創り上げたといわれています。

Air Tahiti Nui missionary ship 1844JWilliams

プロテスタントの影響

1820年にボラボラ島へ到着したイギリスのプロテスタント宣教師たちは、新しい食材を持ち込んで現地の料理を一新したわけではありませんでした。
彼らがもたらしたのは「新しい生活習慣」や「規律ある生き方」でした。

宣教師たちは、常に聖書に基づいた節制を求め、禁欲的な生活を地元の人々に強く求めました。その結果、食の面でも、豊かさを楽しむという考え方から一転し、控えめで倹約的な食生活が理想とされるようになります。当時のボラボラ島の住民たちは、気候や収穫の状況、戦争、備蓄の有無などに左右されながら、豊富な時期と欠乏の時期を繰り返していたといわれています。
宣教師たちの教えは、そんな不安定な環境の中で、精神的な自制や秩序を保つ手段として機能していたと考えられています。

Air Tahiti Nui cuisine SMailion

加工食品の到来

1898年にボラボラ島がフランスに併合されても、フランスの支配は地元の習慣を大きく変えることはありませんでした。ただし、少量の加工食品の輸入が行われるようになりました。

第一次世界大戦後、商船が増え、缶詰や異国の食材(主にイギリス、フランス、ドイツから)が住民たちに届けられるようになりました。それでも、フレンチポリネシアの食生活は依然として、以下の自然資源を中心に成り立っていました:

  • ファアアプ(fa‘a‘apu):タロイモ、ウル(パンの実)、ファファ(葉野菜)、クレソン、フルーツなど畑で育てた作物
  • モアナ(moana):外洋での漁
  • タイロト(tairoto):ラグーン内の漁
  • アアウ(a‘au):リーフ(サンゴ礁)周辺での漁
  • パラレ(parare):深場での漁

このように、外来の加工食品が徐々に入ってきたものの、フレンチポリネシアの伝統的な食生活は、自然に由来した食材を中心に続いてきたのです。

Air Tahiti Nui canons Bora MLennan

ボブキャット作戦

ラロマタイ – Raromatai-(ボラボラ島とリーワード諸島の名前)における食の革命は、第二次世界大戦中に行われた「ボブキャット作戦」によってもたらされました。

実際、アメリカ陸軍の指導部は、日本帝国との戦いの中で、ボラボラ島を太平洋地域の後方基地として選定しました。その目的は、物資の供給、船舶の整備、休養する兵士たちへの宿舎の提供などでした。
そして、ボラボラ島は3年間に5000人以上の G.I.s(アメリカ陸軍兵士)を迎え入れることとなったのです。

Air Tahiti Nui corned beef label

コンビーフの到来

キャプテン・クックがボラボラ島に到着したのは1769年のことでした。その際、ファアヌイのプニ王は彼に対して、王にふさわしい豪華な宴を振る舞いました。

それからしばらく経った後、アメリカ人たちは、アメリカの食文化や製品をボラボラ島に持ち込みました。そして、ボラボラ島の住民、特に若者たちはその生活様式に魅了されていきました。
「モンキー」は、フランス語圏の国々でコンビーフの愛称として使われた言葉です。この製品はすでに南太平洋地域では広く食べられていましたが、アメリカから持ち込まれた塩分と脂分が多いバージョンは、特に人気を集め、ハムエッグに使用されるかたちで拡がっていきました。

1943年には、アメリカ軍基地を通じてコカ・コーラの瓶が世界中に配布されました。休戦協定の翌日にG.I.s (アメリカ軍兵士)はボラボラ島を去ることとなりますが、その後、空港の滑走路、彼らの習慣や食文化、そして国際観光の始まりというかたちで彼らの影響は残りました。タヒチの空港が商業便を開設したのは、1961年10月のことでした。
 

基本に立ち返る

その後の話はご存じの通りです。フレンチポリネシアとボラボラ島には、世界中から訪れるお客様を迎えるために、国際色豊かなレストランを備えたホテルが次々に開業していきました。ここは、まさに「浮かぶ宮殿」のような素晴らしい場所です。

しかし、ここ15年ほどの間は、より地元に根ざした健康的な食生活が必要だという認識が高まり、ボラボラ島のシェフたちは、島の食材やラグーン、そしてフレンチポリネシアの食材を使った料理をより提供するように少しずつシフトしてきました。